成羽愛宕大花火:流星奉行物語
岡山県の中西部に位置する自然豊かな高梁市成羽町は、人口4、000人程の小さな町ですが、江戸時代より現代まで300年以上続く奉納花火が今でも残っています。
その成羽愛宕大花火の一部始終を紹介しましょう。

成羽愛宕大花火の特長
  1:江戸時代より300年以上続くの伝統があります。
  2:備北商工会成羽町支部会員などによる手造り奉納花火であります。
  3:流星奉行に受け継がれた秘伝の仕掛花火(昔はカラクリと言った)があります。
もちろん、打上げ花火や火薬の扱いなど法律に触れる箇所は花火師がしますが、それ以外はすべて町民のボランティアによって運営されている手造り花火大会です。
駐車場係、観覧席係、電気係、消防団員、そして、花火係などすべ町民の無料ボランティアによって運営されています。

さらに、有料観覧席整理料、公共駐車場整理料はすべて花火大会運営費用となっています。

成羽愛宕大花火の歴史  成羽町史より
年 号 出  来  事
1617 元和3年 山崎家治が成羽城に入り成羽藩が始まる
1704 宝永元年 成羽藩後期山崎二代藩主山崎義方が参勤交代のため江戸屋敷が愛宕下にあり、尊崇していた愛宕神社を成羽の愛宕山頂に勧請した
愛宕神社に白谷提にて花火を奉納 大砲方は『流星奉行』と称えられた
愛宕花火秘伝の基は、「カラクリ」にあった。 毎年、「大力ラクリ」三つ位が仕組まれ、「カラクリ」は、カラクリ場が設けられ、大導火によって、一瞬にして構図前面に点火する法であった。 構図は、専門の絵師が下絵を描き、大規模で大変華やかなものであった。 その他、「ホタル」・「サクラ」・「シャグマ」と呼ばれる仕掛もあったという。 揚花火は、尺玉ほか大小無数で、尺玉は、白谷提では危険なため、天神丘で揚げられた。 尺玉が一度中天に開くや、町中真昼間の明るさを呈したが、尺玉を揚げることは至極稀であった。  花火に集う観覧者は、老若男女、遠近を問わず多数が集まった。藩主は、堤に、陣幕を張った座敷で観覧、家中藩士達は、縄張りを設けてその内側に、その外側(川原)が一般の観覧席であったという。
1715 正徳5年 愛宕神社に観音石像奉納
1716 享保元年 愛宕神社に大鳥居奉納
1790 寛政2年 山崎候の献立料理控帳に「上げ火御上覧、同日川向こうにて砲術演習」の記述あり
1825 文政8年 成羽藩の船方役用帳(渡船の日誌)に「花火があるから、船頭を増やす」との記述があり
1871 明治4年 成羽県になる 廃藩置県により中止
1881 明治14年 地元有力者、成羽壮年団により再興
1927 大正15年 白谷水車小屋で準備中に爆発し死者4名がでる大惨事にて中止 成羽独特の『カラクリ』の秘法書など焼失した
1929 昭和4年 下原壮年団により再興 成羽町商工会は応援
1937 昭和12年 日中戦争勃発、第2次世界大戦により中止
1949 昭和24年 成羽町商工会創生会(青年中心)が再興を願い花火50本を奉納
1950 昭和25年 成羽町、成羽町商工会、備北乗合葛、催により白谷蹟から成羽川河畔に移して再興、名称も「備中名物 成羽愛宕大花火」と称した 専門の花火師に委託
1953 昭和28年 備中神楽の共演が始まる 成羽の伝統を継いだ経験者を花火屋に派遣し伝統を継承
1960 昭和35年 成羽町商工会法制化
1961 昭和36年 花火人出調査33000人、昭和42年50000人
1966 昭和41年 前夜祭成羽おどりが始まる
1972 昭和47年 豪雨水害により中止
1974 昭和49年 成羽町、成羽町商工会主催により再興 仕掛け花火が5景から9景となる
1978 昭和53年 成羽町観光協会が共催に加わり、三者共催となる
1980 昭和55年 成羽独特の仕掛け花火を商工会員の手造りに復興させた
1993 平成5年 仕掛け花火が9景から12景となる
1996 平成8年 成羽町商工会青年部により『流星奉行』を復活させた
2004 平成16年 高梁市、川上郡成羽町・川上町・備中町、上房郡有漢町との対等合併により新・高梁市となる
2005 平成17年 高梁市内の有漢町商工会、成羽町商工会、川上町商工会、備中町商工会が合併し、備北商工会が誕生した
2006 平成18年 備北商工会内、成羽愛宕大花火実行委員会主催になる
2015 平成27年 江戸時代から続き311年目 復興64回
ITの活用にて交通情報発信 花火改善
 

成羽愛宕大花火の歴史資料
重要保存版:成羽町広報誌資料、成羽町商工会資料



花火を始めた山崎のお殿様ってどんな人?
成羽藩の山崎候の功績



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